Institute for Social and Educational Equity

世の中の社会的/教育的不利ってだいたい少数派であることから来るんじゃない?

こんなことやってきました&できます

【こんなことやってきました】

①知的障害特別支援学校教諭(中学部・高等部 ICT活用主任・学年主任など)8年間

 公立中学校支援級主任4年間

 障害者生活介護事業所支援員

②米国公立高校にて日本語クラスを担当2年間

 青葉区国際交流ラウンジ日本語教室ボランティア3年間

 富士見町日本語教室ボランティア

③公立中学校教諭(数学)11年間

④日本フラッグフットボール連盟本部委員(全国小学生部門委員長・関東中学生部門委員長・指導者育成委員など)10年間

 小中学生フラッグフットボールチーム代表20年間

 シニア(over40)アメリカンフットボール現役プレイヤー

 

【こんなことできます】

①障害者支援および支援に関する助言・研修

②日本語指導/支援

③学習支援(数学を中心に5教科)

④フラッグフットボール体験会/指導者講習

など

「みんなの選挙」を現実化するには?

https://www3.nhk.or.jp/news/special/minnanosenkyo/info_05.html

投票という行動自体に関する環境はかなり整備されてきている様子。

 

では「誰に投票するか?」という意思決定についてはどうだろうか?

知的障害のあるかたや、外国にルーツのあるかたも、年齢や住民登録などの条件さえ満たしていれば投票権はある。

しかし投票の意思決定に関する情報保障は充分にできているだろうか?

たとえば「やさしい日本語」を意識したマニフェストを提示している候補者がいったいどれほどいるだろうか?

支援学校等でどんなに「主権者教育」をしたとしても、そういった部分が抜け落ちていては、少数派の人たちの参政権が保障されているとはいえないだろう。

ましてや「保護者が2票持っている」なんてことにならないように…

咳やくしゃみをするときに口に手を当てられるようになるには?

たとえば食事中に突然咳をした人がいたとする。

咳をするときは口に手を当てるものですよ、ということを教えようとしても後の祭り。咳をした後に口に手を当てることを習慣づけてもリアリティはない。

それならばと、口に手を当ててから「コホンコホン」とやってみる。それを真似て、口に手を当てて「コホンコホン」(←本当の咳ではない😅)

なかなか難しいものですね…

ファミレスや居酒屋のピンポンから支援を考える

押すと店員さんが来てくれるピンポンボタン。ざわついている居酒屋で大きな声出して呼んでも店員さんが反応してくれないと軽く凹む僕としてはとってもありがたい発明。

 

しかし嬉しいのは僕だけではなかろう。

 

何度呼んでもオーダーとりに来てくれないと、心折れて「もういいや…」となってしまうお客もいる。店としては機会ロス。ピンポンの導入により、取りこぼしなくオーダーがとれる。店もお客も満足できるwin win。

「合理的配慮」がこんな関係性で実現できればいいなと思う。

 

自分でできることは支援しなくていいという考えかたに基づくと、声が出せる人にはピンポンボタンは不要ということになる。それならば歩ける人はどこへ行くにも車や電車なんかに乗らずに自分の足で行かなければならないということになるのだろうけど、渋滞したり電車が寿司詰めになるくらい、みんな歩いていない。

自分でできることに対しても、支援という選択肢はあってもいいのだと思う。

 

さて、ピンポンで店員さんを呼んだ後、欲しいものをどのように伝えるだろうか?

欲しいものの名前を口に出して言う人、メニューを指さして「これ」と言う人、メニューに振られてる番号で伝える人、メニューからの選ばずに欲しいもののだいたいのイメージを伝える人…さまざまな伝え方があり、どの方法でもちゃんと伝わる。 (台湾料理屋さんは番号で言って欲しいと言われることが多い印象はあるけれど)

VOCAのようなコミュニケーションエイドを活用する際にも、全てをVOCAでやろうとする必要は全然ない。そこにいない人を呼ぶためには音声で伝えたほうがいいかもしれないけれど、その人が来たら、自分の伝えやすい方法で伝えればいいんじゃないかと思う。

生まれてくる子には障害がないほうがいい?

先日のフォーラムで複数の人が言っていたのが気になった。

〜「生まれてくる子には障害がないほうがいい」というのは「障害者はいなくなればいい」という津久井やまゆり園事件の犯人の主張と変わらないのではないか〜

発言に慎重になる必要があるという気持ちはわかるけれど、「生まれてくる子には障害がないほうがいい」というのはごく自然な思いであり、それ自体は否定されるものではないんじゃないかと。そりゃあ障害があるよりもないほうがいい。

大事なのは「障害があっても何とかなる」と思える社会を我々がつくれているのかどうかということ。制度、意識、その他諸々の面で。

支援者が手をとって描いた絵は一体誰の作品なのか?

まずは金森先生の下記の記事

https://www.magicaltoybox.org/kinta/2015/06/06/8174/

いわゆる「コックリさん」状態で描いたり書いたりすること。

特別支援の永遠の課題のひとつかと。

初期段階で「型」を教えるためには必要な過程なのかもしれないけれど、そこで出来上がったものを「生徒の作品」としてもいいのか?

ならば、手本となる絵を下に敷いて透かしながらなぞり書きした場合は?少なくとも他者の力が働いていない状態で、生徒が自力で描いてはいる。

そもそもそうやって「描かされている」状態というのは本人にとって果たしてどうなのか?

「作品」というより「作らされ品」になってないか、立ち止まってみることが大事なのかもしれない。

 

追記:肢体不自由等で筆記具が握れないかたの場合、本人に筆記具を握ってもらい、その上から支援者がサポートして動かすというよりも、支援者が筆記具を握り、その腕を本人に動かしてもらうことで、本人の意思を尊重した支援が可能になります。