Institute for Social and Educational Equity

世の中の社会的/教育的不利ってだいたい少数派であることから来るんじゃない?

未知の対象に抱く感情

かつて支援級で受け持っていたAくんが、とある先生のことを「怖い」と評した。とても温和な印象の先生なのに。話を聞いていくと、学校の先生の半分ぐらいを「怖い」と感じている様子。

「怖い」先生に共通するのは、支援級の授業を受け持っていない先生であるということがわかった。日頃接することのない先生たちである。よく知らないことで「怖い」という印象に繋がっているのかなと思う。

しかしそれってAくんの特性故というわけではないんじゃないのか。知的障害のある人にほとんど接したことのない人は、知的障害のある人のことを「怖い」と感じているケースが少なくない。海外で生活したことのない人は、海外での生活について「怖い」という印象を持っていることが少なくない。

つまり、我々は皆「よく知らない対象」を「怖い」と捉えがちと言えるのではないだろうか。「怖い」からますます疎遠になり、溝が埋まらない。

そんな無用の心配を減らすには、やはり「知ろうとすること」「知ってもらおうとすること」なんだろうなあと思う。

アセスメント

「アセス」なんて略す人もいるけれど、それじゃあ歯周病の薬?になっちゃう

 

で、assessment。

出てきた結果を見て「当たってるー!」とか「なるほどー🧐」とか言う担当の先生がいるけれど、アセスメントは占いではない😅

その生徒のあくまで一部分について調べて分析しているだけ。PC上での画像に例えると画素数を粗くしたようなもの。日頃から接している先生のほうがよっぽどその子のことはわかってるはず。

じゃあアセスメントをやる意味は?僕なりの捉えは「チェックリスト」。アセスメントの一つ一つの項目は、その子の能力のほんの一部を測るのに過ぎないけれど、能力の「代表」として厳選されたものであるはず。ならば、その項目について現時点でできてるのかどうなのか、どんな支援があればできるのか、などを突き詰めていっても良いと思う。また、アセスメントの結果や一つ一つの項目の評価は、その子のことを知らない人と情報共有するのには非常にコンパクトにまとまっているもののはず。

せっかくやるのだから、最大限かつ最適に活用したいものですね😊

【緊急討論】今日の天気

朝の会とかでよくあるメニュー。

けど僕は今までやったことない。

何のためにやるのか目的がわからない。今日の天気は「晴れ」だから何?と😅そもそも天気なんて時々刻々変わってゆくものだし。「晴れ」と「曇り」はどこで分かれる?僕らだって曖昧。

「雨が降ってるから傘をさしましょう」とか「天気予報では明日の帰りの時間には雨だから傘を忘れないようにねー」とかだったらわかる。ま、天気予報だって外れることもあるけれど。

明確な狙いをもって取り組んでいる方がいらっしゃいましたら、コメント欄にて共有させていただけると勉強になります📖

宿泊行事

自然教室や修学旅行。

100名を超える学年全員で、宿を貸し切って、移動も貸切で、協調性を育てる???

大人になってからそんな旅行をしたことがありますか?

貸切=他者がいない状況で、子どもたちは気が大きくなってやりたい放題。そしてそれを制することに疲弊する大人。羽目を外したくなるような環境をわざわざ用意してあげときながら、羽目を外させないよう全精力を注ぐ…何かの修行ですか?

個人や家族での旅行が一般的でなかった時代に、学校でまとめて連れて行って、さまざまな経験をさせるというのはアリだったのかもしれないけれど、今このご時世で旧態依然とした団体旅行はリアルで意味を持つことなのだろうか?

社会は厳しい?

「社会に出たらもっと厳しいんだから」というのは(自分の)厳しい指導を(正当化)する人の常套句。

そりゃ厳しい部分もあるかもしれないけれど、日々そんなことばかり言われてたら大人になるのが嫌になっちゃう。

厳しい部分も、そうでもない部分も、もちろん「喜び」の部分も正しく伝えた上で、見通しが持てるような指導・支援をすることがプロの仕事なんではないだろうか。

コンビニにて

重度の知的障害がある中学生の息子をもつ親御さんの話。

 

息子と一緒にコンビニに入ったときのこと、目的の商品を持ってレジに向かうと、頼んだ覚えないない「肉まん」が用意されていた。

「頼んでないのですが」と言うと、店員は「お連れさんが“肉まんください”って…」

 

これが「買物学習」だと「よく言えたねー!偉いねー」となるだろう。「お店で自分の欲しいものを伝えられる」という目標は達成。

しかし実際場面では、自分で代金を払うあてもないのに「肉まんください」では褒められるものではない。

 

何かができるようになるのはとても喜ばしいこと。しかしその一方で「状況判断」や「自己統制」が育まれないと、実際場面で活きる力になるとは言い難い。

早けりゃいいってもんじゃない

「褒めて伸ばす」これはある程度正しい。

褒められてもナンノコッチャ?となるような場合は褒めても伸びにくい。また、褒めたことでその行動が過剰に出現してしまう場合は、ちょっとやり方を考えたほうが良いと思う。

たとえばこんなことがあった。

4校時の終わり頃、もうすぐ給食というときに、応援で入ってくれた先生が「クラスで食べるのが一番早いのは誰?」と聞いた。すかさず手を挙げた生徒に「すごいねー」。その生徒は「早く食べる」ことが強化され、給食をよく噛まずに丸呑みしては犬喰いで矢継ぎ早に口に入れるようになってしまった。いうまでもなく、給食を食べる際に大事なのはスピードというよりも美味しくマナー良く食べることである。

逆に、次のようなことも言える。

体育でボッチャに取り組んでいたときの話。力が強すぎて的球を大きく越えてしまった生徒に対する「強い!」という言葉かけ。もしその生徒が「強い」ということに価値を見出しているとしたら、「そうなのだ!おれは強いのだ!うぉぉぉぉ!!!!」となり、本当は目標としたかった力加減については何も変容が見られないかもしれない。

また、加減しすぎなのか的球に大きく届かない生徒に対する「やさしい!」という言葉かけ。もしその生徒が「優しい」ということに価値を見出しているとしたら、「そうでしょ?ボクって優しいでしょ?」となり、やはり本当は目標としたかった力加減については何も変容が見られないかもしれない。

相手がどんな言葉かけに対してどんな価値づけをして捉えているのかをよく理解し、それぞれの特性に応じて言葉のかけかたを精査することがプロの仕事なのかなと。