Institute for Social and Educational Equity

世の中の社会的/教育的不利ってだいたい少数派であることから来るんじゃない?

発語指導

発語が不明瞭な子に「こんにちは」を「こ・ん・に・ち・わ」と一文字ずつ区切って発音させる指導がよく見られる。

文字の認識という点では有効かもしれないけれど、スムーズなコミュニケーションという点ではやや疑問かなと思う。

我々が「こんにちは」と言うとき、どんなふうに発音するか、思いを及ばせてほしい。

「こん・にち・わ」というようなまとまりで発音していると考えると、「こーにーわ」でも充分に伝わるのではないかと思う。一文字一文字正確に発音させることよりも、リズムよく発音させることのほうが、少ない労力で大きな成果を得られるのではないかと。

 

拍ではなく音節で。

卒業アルバム

僕らの頃は住所録まで載ってたのだけど、個人情報保護の観点からか、近年は住所録は載ってない。というより、クラスの住所録も連絡網も今はない。個人情報保護というのなら、そのうち個人写真の名前も掲載しなくなるんじゃないかと。

それはともかく、スナップ写真の登場回数に偏りがないようにカウントしたり、結構大変な作業。の割には、生徒個々人にしてみれば、自分が写ってるスナップ写真は数枚しかないという。作業が大変な割には生徒の満足度は決して高くない。ならば、スナップ写真のページはナシにしてフエルアルバムのページにしてしまえば良いかと。そこに生徒個々人が選んだスナップ写真を貼っていく。先生の業務が削減される上に生徒の満足度も爆上がり。

ついでに、何故か巻頭にある、生徒の個人写真よりもはるかに大きい校長先生の写真。いったい誰のためのアルバムなのか。校長先生を含む教員の写真は集合写真で充分。

「合理的配慮」は「提供してあげるもの」?

元々の英語は"reasonable accommodation"

accomodationは「配慮」というよりも「調整」に近い意味合いなのではないかと思う。

「配慮」と言うと「要求するもの」「提供してあげるもの」という関係性がイメージされる。「提供してあげる」側が上位、「要求する」側が下位という概念が、無意識であっても根底にあるのは否めない。

障害があろうがなかろうが対等であるという関係性を前提とするのであれば、「配慮」というよりも「調整」とするほうが近いのではないかと考える。「要求」「提供」という一方向の関係性というよりも、お互いにとって合理的な落としどころを探り、歩み寄るのである。

 

たとえば学習場面におけるreasonable accomodation。

読み書きに困難がある生徒の知識技能や思考判断についてどのように学習評価するか。

多くの生徒と同じように、紙に印刷されたものを読んで自筆で答えるような試験では、この生徒の知識技能や思考判断を正確に見取ることはできない。読み書きができることと学習内容を理解していることは別モノ。

代読や口頭など、代わりの手段を講じることにより、その生徒の学びを見取ることができる可能性があるのではないか。しかし残念ながらそういった手段を講じることに対して「特別扱いはできない」などと難色を示す学校や担当者はまだまだ少なくない。

教員の仕事は学習指導をするだけでなく、生徒の学びを見取り、更なる指導に活かすことであるのは言うまでもない。見取るための手段を個に応じて講じることは教材研究と同じぐらい注力されるべき部分だと思うのである。

かわいがられる人になる?

就労のためにつけたい力としてよく挙げられること。

健常者はかわいがる側、障害者はかわいがられる側という関係性は本当にそうだろうか?

健常者だってかわいがられるほうがトク。だけれどもわざわざそんな目標は立てない。

どっちが上でどっちが下とか考えているのだとしたら、それはとんでもない思い上がりなんじゃないか。

入部当初はヤル気満々だったのに学年が上がっていくにつれてどうやって部活サボろうかと考えるようになってしまう現象に名前つけたい

まあタイトルの通りです。

嫌々やってる部員に、何とかやらせようとする指導者。お互いに苦しい。しかも部活動顧問はほぼ無償に近い形でやっている。

そんな問題を生んでしまう原因のひとつは現行の入試システムにあるのかなと。

「部活動3年間」の称号を持っていると高校入試に有利に働く場合がある。実際には一部の学校の一部の選抜方法に限られているのだけど。

また、小学生までは地域や学校に付設している学童のサービスを利用できるけれど、中学生からはそれに相当するサービスがない。放課後持て余す子どもに家にいられても困る?保護者。(かつて休日の部活動をどちらかに1日だけに減らしたときに「それでは困りますッ!」と言った保護者がいたのだ。本当にあった怖い話😱)

そんなこんながあって、本気で取り組みたい子どもとそうでもない子どもが混在する。

一方で、教員の超過勤務の最大の原因となっている部活動。部活動を大義名分にしていろいろな仕事から逃げている教員がいるのも事実だけど。

時間外勤務に対する正当な報酬を用意するだけの予算が取れないのなら、部活動も学童?の機能も外部イタクイッタクでしょう。

まあ部活やりたくて教員になった人は、勤務時間終了後とか、時間休とったり時短勤務申請するとかして部活動(とはもう言わないか)も有償でやればよろしい。

なんか、子どもも大人も気持ちに余裕を持った状態で相対したいよね。

清掃のお仕事

某支援学校高等部卒業後の進路に関する研修。

在学中から校内実習に取り組んでいる様子や、現場実習に取り組んでいる姿が写真で紹介される。

清掃関連の仕事も多い。手で雑巾を持って小便器の中を拭いている様子が映し出されると、担当教員が「こんなに頑張っているんですよ」とドヤ顔。

いや本人は頑張っているのだと思うけれど、その生徒が自分の子どもだったとして、手で雑巾を持って小便器の中を拭くような仕事をさせて本当に嬉しいだろうか?

そのあたり、感覚がズレないようにしたいところですね。

味がある

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どうですか?コレ。

ウチの支援級で書いたものです。

どことなく温かみというか、味があると思いませんか?

アートとして評価されるかもしれない?

それは嬉しいですね。

 

 

 

ハイ。支援級で私(教員)が書いたものです。

なーんだ。って思った人もいるかな?

 

もう一度「ありがとう」を見ていただきたい。

同じモノでも、障害のある人がつくったものだと「味がある」「温かい」「アート」などと評価されがちだけど、障害のない人がつくったものだとそれほどの評価はされない。

作業所の製品だったりすると、ひょっとしたらお金を出して買ってくれる人もいるかもしれないけれど、僕が書いたものだと誰もわざわざ買ってはくれない。

 

しかしそれって「持続可能」と言えるだろうか?

 

上の「ありがとう」が、作業所の製品として200円で売ってたとする。

気持ちやお金に少し余裕のある人は「これステキ!」とか思って買ってくれるかもしれないけれど、今猛烈に喉が渇いていて200円しか持ってない人はその200円で「ありがとう」は買わない。

今、この国では、所得は増えず物価が上がるという傾向が続いている。みんなが貧乏になっていってる。

そんな状況では「ありがとう」を買ってくれる人はどんどん減っていってしまうのではないか。

 

「障害のある人が関わったものだから」と思って手に取ってくれるのはありがたいこと。しかしそれだけではやはり持続可能性は決して高くない。

誰がつくったものだろうが「良い」と思ってもらえるようなものを創り出していく努力は欠かせないんじゃないだろうか。